日記

飛田新地もディズニーも楽しめないのは馬鹿を演じられないからだ

今日、隣の部署の職場の先輩が結婚するとのことで色々な人達がサプライズイベントに向けて色々と行動している。

どうやらメッセージビデオを作っているらしい。

おそらく、結婚式で突然流されるのだろう。

そして、その先輩は喜ぶのだろう。

それが一般的な人の反応だとは思う。

しかしながら、もし自分が結婚するとして、そういったサプライズイベントを起こされても自分は決して喜ばないと思う。

もちろん、してもらったという気持ちは嬉しいし、それについては感謝するだろう。

しかしながら、感謝はすれども心の奥底から、手放しで喜ぶことは出来ないと自分は感じる。

思えば、昔からディズニーも苦手だった。

着ぐるみのネズミに熱狂する意味が理解できない。

千葉と東京の境目の土地はワンダーランドでも夢の国でもない。

ただの埋立地だ。

人がキャーキャーしている喜びも分からないし自分もその輪に加わろうとは思えない。

人が熱狂するほど自分の心は冷めていく。

飛田新地でもそうだ。

遊郭の歴史を受け継ぐ伝統的なスポットという点において自分を興奮させるこは可能であったが、実際に経験してみると性的興奮を処理するのに金を支払う必然性は存在せず、一時的快楽のために数万円を無駄にするというデメリットが先走ってしまい、どうにもなっとくできなかった。

中折した。

はい。

自分にあるのは馬鹿を演じられないところだろう。

何かを手放しで好きにならない。

好きになっても心の奥底では常に冷めている。

実に損をした性格だ。

そもそも、馬鹿を演じるという表現自体が自分の性格を物語っている。

飛田新地で射精をしたり、ミッキーマウスに抱きついたりする行為を「演じる」と描写する時点で自分はそれが死ぬまで出来ないことを物語っているようなものだ。

本来は馬鹿になると書くべきだが、馬鹿になれる人は馬鹿になっているとすら思わないし、端的に言って穿った見方をしている自分の方が馬鹿だ。

幸いなことに、自らの性格はそのような方々を批判するところまでねじ曲がっている程ではないため、他人が馬鹿になっている所を見てもすごいとか羨ましい、とかを思う程度である

自分はこれからもディズニーや飛田新地には行かずにガレージやテントの中で暗く過ごしていくのだろう